八王子城跡 ― 2016年05月03日
ゴールデンウィークの人混みに辟易し、Mと二人で山に逃げた。
ここは高尾から少し入った八王子城。
城はもう残ってはいない。
でも、そこを歩けば当時の山城とはどういうものだったのかがよく解る。
麓の資料館を見ただけでは絶対に解らない、戦闘城の有り様が理解できる。
都下で育ったものなら誰もが習う。
八王子城とは400年以上前、小田原北条の息子(氏照)が築いた城だ。
壮麗な天守を持ち行政の場だった江戸時代の城と違う。
戦国時代の山城は戦闘の砦であり、軍事拠点だ。
無料の大きな駐車場には車が半分ほど。
資料館はそこそこ混んでいたけれど、そこから山に入る人はそれほど多くない。
大手門から曳橋、御主殿跡を見たくらいで引き返してしまう人が多いんだ。
でもここに来たからには山に入らないわけにはいかない。
山頂の本丸跡を目指し、歩き始める。
麓の居住地区から山に入れば、直ぐに要塞地区へと変わる。
自然の地形と、人が作った土塁や堀切り、そして幾つもの曲輪。
なにしろ400年以上も前。
それも破壊されているから想像力を働かせて当事の暮らしを思う。
居住地区に住む人たちは、いざ戦闘となると裏山の要塞へと逃げ込む。
そこに敵を誘い込み、攻防したのだ。
この険しい山だもの。
下から攻め込むには大変な犠牲を伴ったろう。
一帯にはシャガの花が咲いていた。
それも群生と言っても良いほどに。
古くから日本にあるアヤメの一種で、僕の好きな花だ。
戦国時代のこの地にも咲いていたろうか。
道は整備されているけれど、ところどころ荒れている。
また浮石や滑りやすいところもあるので、それなりの靴を履いてきた方が良い。
すれ違ったオジサンはサンダル履きで難儀していた。
サンダルで分け入るなど、かつての山城をナメてはいかん。
ぜいぜいと汗をかいた頃、八王子神社が現れる。
1000年以上前、偉いお坊様がこの地で修行をしていたという。
すると牛頭天王と八人の王子が現れ、お坊さんにこの地に留まれと言ったという。
それを祭ったのがこの神社で、八王子の地名の由来となっている。
高尾山をはじめ、この辺では天狗様を見ることが多い。
修験道と関係有るのだろうか。
こんど調べてみよう。
そして山頂。
麓からゆっくり歩いて50分ほどか。
本丸があった場所には小さな祠があるのみ。
休日だというのにひっそりと、誰も居ない。
400年以上も前、天下統一を企む秀吉の最後の仕上げが小田原北条攻めだった。
小田原の本城と関東に100近くもあった支城が攻められる。
この八王子城は城主と主力部隊が小田原応援のために出払っていた。
残ったのは僅かな防衛力と農民など3千。
秀吉勢は前田、上杉、真田ら1万5千だ。
八王子城は地の利を生かして善戦したがやがて落城。
沢山の戦死者と自刃した民の血で、沢の水が三日間真っ赤に染まったと言われる。
資料館で聴いた話では、この八王子城は見せしめとして全滅させられたという。
小田原の篭城戦に腹を立てた秀吉が、開城を迫る道具に八王子の惨状を使ったのだと。
遠くに八王子の街を見下ろしながらマミーを飲んで休憩。
アカゲラが樹を突く音。
ホウノキが白い大きな花を咲かせている。
数千の人が戦死した場所とは思えるほど、今は静かな山の中。
あの戦で唯一落ちずに残った北条方の城が、今の行田市にあった忍城だった。
2008年に父が逝った時、相続の手続きに必要で戸籍を辿った。
そして僕の祖父が産まれた場所が、その忍城のすぐ近くだと知ったんだ。
祖父や父を、この山に連れてきたらなんと言ったろう。
歴史好きだった祖父は、秀吉の悪口を聞かせてくれただろう。
そんな事に興味の無い山菜好きだった父は、ワラビ摘みに興じただろう。








