スナギモのこと2015年08月03日

駅の反対側にイトーヨーカドーが来るまで、僕の住む街で唯一の大型店は西友だった。
まだスーパーマーケットというものが珍しかった昔の頃だ。
病弱でほとんど幼稚園に行かなかった僕は近所の子達が通園バスで行ってしまっても、昼間の時間を母と家で過ごしていた。
そんな僕にとって西友への買い物は、徒歩数分の場所ではあったけれど楽しいものだった。

催事場やレストランはもちろん、地下の食料品売り場ですらワクワクする場所だった。
中でも惣菜コーナー。
惣菜コーナーなんて今ではどこへ行っても有る。
でも当時は、肉屋の店先で売っているコロッケくらいしか他に知らなかったのだから。
酢豚とか春巻きとか唐揚げとか餃子とか、見ているだけで楽しかった。
そして幼稚園児の僕は、なぜかそこで売っている鶏のスナギモを焼いたのに魅せられた。

そんなお酒の肴みたいなもの、と母は言った。
こいつはきっと大酒飲みになるぞ、と父は言った。
あのコリコリした食感が珍しかったんだろう。
とにかく母と西友へ行くたび、そこでスナギモを買ってもらうのが楽しみだったんだ。

そんなある時、惣菜売り場にスナギモ焼きが無い。
売り切れなのか、入荷しなかったのか。
僕は、その場で大泣きをした。
母はどうしていたかな。 きっと困っていただろうな。 恥ずかしかったろうな。
そして僕は泣きながら、そこに居た店員さんにスナギモが欲しいと訴えたのだ。
その時の事を今でも良く覚えている。
店員さんが奥から、焦げて売り物にならないと言うスナギモ焼きを持ってきてくれたんだ。

両親の間で、その出来事はずいぶん長いこと語られた。
あの内弁慶で引っ込み思案で恥ずかしがり屋で人見知りで内気で泣き虫の子(僕だ)が、大声で知らない大人の店員さんにスナギモが欲しいと訴えるなんて!、と。
大笑いしながら何度も何度も、両親はその話をしていた。
スナギモを食べるたびに、また笑っていた。


いつしかスナギモなんか飽きてしまい、その存在すら忘れていた。
世の中には食べる物があまりにも多いから。
でも昨日サミットで買い物をしていて鶏肉売り場で見つけたんだ。
夜、それをフライパンで焼いた。
酒は愛知の「奥・夏の吟醸純米火入れ」
親父の予言通り酒好きになった。
そして40年以上前のスナギモ事件を思い出しながら、酒を呑む。
もしここに両親が居たら、など思いながら独りで呑む。