2014年04月30日

母に心配されながら僕は育ってきた、と日記に書いた。
それと同時に僕もまた、母を心配しながら生きてきたのだ。
誰かを気遣い不安になる。
そんな感情を持てることは幸せなのかもしれない。
自分の為ではなく誰かのために生きることは尊い、と教会の伝道師が言う。
だとしたらこの一年間、僕は母に飛び切りの幸せを貰っているのかもしれない。

数日前から、母の具合があまり良くない。
往診の回数を増やす事と、夜間や休日の対応は手配が済んだ。
痛みに対する対処も依頼した。
介護等級の見直しも申請したけれど、それにはまだ時間が掛かりそうだ。
あと今やるべきは、連絡の取れない兄の事か。
母の病気から逃げるばかりのあの男を、どうすれば良いのか僕には解らない。

大粒の雨にモッコウバラの花が揺れる朝。
昼間一人で寝ている母の事を思いながら出勤。
モッコウバラの季節に退院した母は、梅雨を越し、夏の海辺の実家へ帰り、僕の作った秋野菜を食べ、柚子湯に入り、正月を迎え、節分に豆をまき、春を喜び、今またモッコウバラを見ている。
そしてもうすぐ、紫陽花が咲くだろう。
母が丹精した沢山の紫陽花が今、蕾を少しずつ膨らませている。